甘い砂を噛む

古い記憶の為に大凡誤謬もあろうが、正確な記録のみが美徳とされ、インターネットやらドライブレコーダーやらSNSやらによりエビデンス中毒者だらけになったこの病んだ時代には、少々曖昧で美しい記憶こそが薬になると信じているし、俺の精通の話をするにあたって俺の記憶以上に正しい(或いは間違っている)情報はこの世界の何処にもない。

俺の育った街は横から見るとアルファベットのMの様な、2つの小さな山が連なる地形となっており、中央の凹みの底に小学校がある。

右側の縦棒の先端を駅とするならば、谷底の小学校から駅へ向かう登り坂はアジア系や大陸系の風俗店が軒を連ねており、およそ情操教育に相応しくない通学路を備えたこの街には、赤や金のスパンコールの衣装を街灯に当て煌かせながら、暗い目で遠くを見て煙草をふかす女性が沢山いた。

小学4年生、年は明けたが春は遠い冬の早朝の記憶だ。

俺が当時所属していた地元の少年剣道クラブは毎週日曜日の7時から小学校の体育館で練習があった為、駅の近くに住んでいた俺は息が白く凍る休日の早朝に、上記の通学路の坂を下って学校に向かっていた。

風俗店と言っても4から5階建ての雑居ビルのテナントを借りて経営している小さな店が多く、給料日後の土曜日早朝ならまだしも、日曜日の6時過ぎともなれば客も女も殆どが街からいなくなる。

坂を半分ほど下り、小学校まで残り150mくらいの場所に建つ小さめの雑居ビルは1階が駐車できる構造となっており、俺が前を通り過ぎようとすると駐車スペースの奥の暗がりから人間だけが出せる粘り気と艶のある吐息が聞こえてきた。

奥を垣間見ると、暗がりに馴染む少し浅黒い肌のフィリピン系の中年女性が、色白で美しい黒髪の若い女性をコンクリートの壁に抑えつける形でキスをしていた。

恐ろしく豪奢な顔立ちのフィリピン人らしき女性は鼻が信じられないほど高く、その鼻を男性器の様に相手の顔に押し付けながら行うキスは官能的かつグロテスクで、俺の人生に於いてあれよりも興奮するキスは見た事がない。

一方の黒髪の女性は目をきつく閉じ、片手をフィリピン系の女性の頭に当て、相手の髪の毛を細い指に絡め取りながら顔の角度を様々に変え、フィリピン系の女性の鼻を顔の様々な場所に当てていた。

2人のキスはかなり長く続いた様に思えたが、やがて抑え付けられていた方の女性がこちらに気付き、慌ててフィリピン系の女性を押し戻しこちらを指差しながら顔を背けた。(因みに言うと俺の人生に於いてこれよりも可愛らしい女性の仕草も見た事がない為、俺が好きな女性の仕草を尋ねられた時は"壁に抑え付けられながら貪る様なキスをされているのを誰かに見られてしまい、慌てて顔を背けながらパートナーに知らせる為その方向を指差す仕草"と答える他ない)

指差された俺の方はと言うと、初めての射精を迎えて字義通り茫然自失としていた。(女性の初めての絶頂の感覚は分からないが、同性の友人に精通の事を尋ねた時に同じく頭が真っ白になり少しふらついたと言っていたので、これは男性の精通に共通の現象なのかもしれない)

ただ、少なくともそれが愛を紡ぐ営みであり、他人に見せつける為の行為ではない事は理解していた為、すぐに踵を返して元の道を駆け下りた。

振り返り様にこちらを見遣ったフィリピン系の女性の濃いアイシャドウ、熱く白い息を吐く口元、それを彩る少し乱れた口紅、ようやく登ろうとする太陽の光、背後から聞こえる笑い声、頭痛、初めての射精。

帰りに覗き込んだ雑居ビルの暗がりには誰もおらず、それを見た俺が舐めていた飴を奥歯で強く噛んだ感触を最後に、この美しい記憶は終わる。